頭の弱い私のためのまとめ

戦争を描くアニメとしての『魔法少女リリカルなのはStrikerS』 | 限界小説研究会BLOG
を引用改変しまくってまとめてみました。間違いが確実にあると思われるので上のリンクから飛ぶのが吉です。


ゼロ年代のアニメの中で、戦争の描きかた(戦争観)が悪い三大ワーストアニメ

がある。
 今回は、《魔法少女リリカルなのはStrikerS》についてとりあげる。

1.  A'sの問題点
 萌えアニメに燃え・熱血を加味した作品が多い00年代の中でも、『リリカルなのは』が00年代の王道をいった作品として突出している。
 だが、二期のA'sから感じていたが、戦争の描き方がまずい。

(1)1点目のポイント
 一例を挙げると、(注「e-NOVELSで書いたなのは評論ポイントのひとつ」らしい)
「なのはが『話を聞いて』と敵の少女に言い終わらないうちに必殺技を発射しているのをみて、力をもったなのはが、ネオコンアメリカのように傲慢な存在に変貌しつつあるということです」
というのがある。
 三期になると更にその傾向はひどくなり
「なのはは武装魔法軍隊を率いて、新兵を指導する教官になっている。警護しているビルはまるでニューヨークの国連ビルだし、それに襲撃をかけてくるのは、さながらイスラム過激派のようです。で、テロリストたちを撃破して自分たちの正義を信じて疑わない」
というところまでいってしまった。
 

(2)2点目のポイント
 二期《なのは》の戦争の描きかたの問題点の1つとして挙げられるのが
「二期《なのは》のバトルが、一期と異なり、最終的に味方側にノーダメージで収束・解決してしまう」
点である。
『「それにしても闇の書事件ってさ 第一級ロストギア関連事件なのに 終わってみれば死者0名 おまけに レア能力つきの魔導騎士と 即戦力レベルの 配下レベルの配下4名までゲットして」』
というコミックス版のラストの総括は、二期の展開がいかにご都合主義的だったかが示している。あれだけの大事件が発生して犠牲がゼロ、すべてが都合よく収束しすぎているのだ。
 これは単に結末の予定調和に基づくご都合主義を批判した言ではなく、ギリギリの状況で戦争を選ばざるをえないジレンマと葛藤が、この結末では無効化されてしまうと考えてのことだ。アニメの世界でも戦争という選択肢は極力回避が求められるのが普通だが、やむなく戦争という選択をするとき、戦いに犠牲はつきものと覚悟しなければならない。その犠牲を考慮にいれてなおも戦わないといけないからその選択が重みをもつのであって、《なのは》二期の結末のように、戦いを選んでみても結果として ノーダメージで収束しては、戦争がお気楽に選べる選択肢にされているのに等しい。
 こと戦争アニメに関しては、戦争の後、ノーダメージで平和な日常に復帰する作品は、自分にはアモラル−−モラルに反する−−と思える。たとえこちらの側に非がなくても、たとえ一方的に相手側が悪だったとしても、戦いに突入してしまったときには、それによるなんらかの犠牲を覚悟しなければならない。

(3)2点を纏めると

  • 力をもったなのはが、ネオコンアメリカのように傲慢な存在に変貌しつつある。
  • 戦争という選択をするとき、戦いに犠牲はつきもの。戦いを選んでみても結果として ノーダメージで収束しては、戦争がお気楽に選べる選択肢にされているのに等しい。


2. StrikerSの問題点
(1)第1のポイント
 1-(1)を土台として考えるに
「(なのはは)自分の教練についてこない新兵に対して「少し頭を冷やそうか」と鉄拳制裁を加える。そのときのなのはの表情は、販売されたDVD版ではかわい い顔に修正されてしまいましたが、もとの放映版では死んだ魚のような目をしている。このダークな顔を描いた原画マンは、力をもったなのはの堕落に鋭敏に対応していたのだと思う。(小森×長谷川)」
ということだろう。
もちろん
「ああいった崩れた作画は、第一期、第二期のときから割合よく散見されるものであり、今回に限ってダークな部分を嗅ぎつけたとか、そういう意図で作画されたものではない」(安井154頁)
という意見もあるが、現に崩れた作画があるときに、そこに物語の意図を読み込む解釈 の自由はある程度許されるだろう。筆者の解釈は「かなり穿った見方」であるだろうが、そこに意味を読み込む解釈の自由は許容されてよいと考える。ただ、この点は見解の相違として流すことができるものであり、深刻な意見対立をもたらすものではない。

(2)第2のポイント
 「スカリエッティに政治目的があるのであれば、それから先の未来について触れていなければならない。いわゆる、破壊の後の再生である。しかし、スカリエッ ティにはそれがない。純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである。(安井152頁)」
という意見があるがこれは違うと思われる。
 スカリエッティの喋る台詞やその行動からは、純粋な破壊を望んでいるとして思えない。だが、そのような人物が自殺することはあっても、多くの同調者を得て、対立する政治勢力を指導する立場になることは普通はありえない。スカリエッティの一派が強大化したのは、その主張に共鳴・同感するところが多かったためであり、それは現時点で権力をもっている〈時空管理局〉への不満、打倒願望などを梃子として、多くの賛同者を集めていったとおぼしい。
つまり、そこには、現権力に従属・追従することに代わる行動原理なりなんらかの理想が提示されていたはずであり、たとえスカリエッティの本心が純粋な自殺願望だったとしても、その理念を核としては反権力運動は強大化しえなかっただろう。「純粋に、彼には探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのである」とする安井のスカリエッティ把握は皮相的であると言える。
 現権力に従属・追従することに代わる行動原理なりなんらかの理想が提示していたスカリエッティを物語内では、純粋な悪としてレッテルを張り、排除した。このような、対立者を、「純粋な悪」と措定して抹殺される存在としかみなさない排除には、「正義」を執行する側の自己神化として危険な、異分子排除につながるものがある。
 それが、《ガンダムSEED》や《図書館戦争》と通底する、《魔法少女リリカルなのは》三期の、戦争描写の弊であると言える。

(3)全体のまとめ

  • 力をもったなのはは、三期において自分たちの正義を信じて疑わない存在となってしまった
  • 戦争という選択をするとき、戦いに犠牲はつきもの。戦いを選んでみても結果として ノーダメージで収束しては、戦争がお気楽に選べる選択肢にされているのに等しい。
  • スカリエッティは探求欲と破壊願望しかなく、内に秘めた正義などは微塵もない純粋な悪なのではなく、現権力に従属・追従することに代わる行動原理なりなんらかの理想が提示していた。
  • 対立者を、「純粋な悪」と措定して抹殺される存在としかみなさない排除には、「正義」を執行する側の自己神化として危険な、異分子排除につながる。それが《魔法少女リリカルなのは》三期の、戦争描写の弊である。